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2005年 12月 31日

なんとなく常日ごろぽや~っと考えてることを書いてみます。

◆私とは何か
すべからく「私」とは思考と物質で形成された存在である。
「私」の存在を定義するのは物質であり、
「私」の存在を認識するのは思考である。
また、思考そのものが物質による行為の一種であると考えられるが、
思考はその逆に物質の行為を決定する役割を備えている。
そのため私は物質である思考と思考にしばられた物質を同一化しない。

私という物質による思考は非常に経験的推測より導かれる。
つまり生まれたての赤子などは無我の境地に位置されると考える。
私という物質が他に存在する物質と交わったときに初めて、
思考は私という物質を認識しそれを思考する。

◆人間とは何か
これはもはや人類の永遠のテーマと言っても過言ではないが、
この時代背景で発生しているさまざまな問題を推敲すると、
アリストテレスの「社会的動物」というのが最も今重大な意味を持っているのではないか。
人は生きていく以上、何らかの社会から逃れることは出来ない。

人間は内面的な世界と外的な世界の2つに自分を存在させている。
その2つの世界は太い橋のようなもので結ばれており、
そこに存在する自分は2人になることはなく、常に1人である。
我々は2つの世界において常に1人で存在しなければならない。
簡単に言えば、自分と周りの人間の中で、
うまく折り合いを付けて存在しなければならないということだ。
内面的な世界だけで生きることは不可能である。
また、同じくして外的な世界でのみ生きることも不可能なのである。
そして人間とはその「自らと人の間」を行き来し生きていく動物なのだ。
(そこには知覚システムが依存するが、長くなるのでこのへんで)

◆現実とは何か
それは物質的側面と関係性側面から捉えることが出来る。
物質としてそこに存在しているものは間違いのない現実である。
そしてそれと平行して、社会(人間関係)などの精神的現実が存在する。
この「社会制度」というものは、人間が人間として存在し、
社会を形成する動物である限り消滅することのないものである。
時として精神的現実は人間からリアリティを剥奪する。
リアルとは常に動作している状態のことであり、
静止した状態はもはやリアリティではない。
昨今の人類に蔓延する「リアリティな感覚の欠如」において、
何かが特効薬になるとすればそれは「動き」なのである。
静止した君がリアルを求めるのならば、
まずそれは変えられるものと変えられないものを判断し、
決断し行為していく運動を自ら行わなくてはならない。
それはまず決断のための「可能性」を思考することから始まる。


* * *
おかしな思想を並べ立ててしまった・・・。
でもきっとじっくり読んで考えてもらえれば理解いただけるはず。

最近はこんなことばっかり考えてるんです。
最終的に自分に何があれば満足した生活が送れるんだろうとか、
そういう事を考え出したら今よりもっと多くのものが必要になっちゃった。笑
今の生活を手に入れた上で「満足」を表題にしたことが間違いでした。

思考するのもたまにはいいですよ。
・・ってなんつー時間に何をしてるんだ私は。。

* * *
余談:
「世界で唯一確かなものは、今このように思考している自分である」
 デカルトの言葉で一番すき。
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by xx-aki-xx | 2005-12-31 05:23 | ■中の人日記

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